研究所の活動報告
植物は、自分の適地で本来は繁栄あるいは細々と生きてきました。
自身を守るのは自分と近くに生きている植物たちで、ある意味共存共栄圏(自然の中に生きている場合)を作っています。そして、昔の人たちは、このことを意識して、これらの中で無毒(食べられる野草、野菜など)、少し下ごしらえすれば減毒出来て(ふきのとう、どんぐり、栃の実など)食べて良しの植物の中で、この土地ならではの中で元気で、見てくれの良いのを、食べらることで利用してきていました。
その過程で、食べる時期(旬)にいつの間にか気付き、その栄養と守る力(光、昆虫、カビ、ウィルス等から自身を守る、そして排他すべきの他の植物を攻撃する)ある物を、いくつか選んできています。
そして、里山が活用されていた時期ごろまでには、植物の組み合わせまで考えて(自然的な感性力でだと思います)、ある意味本当の活用をしてきたと私は思っています。
ところが、今は完全に野菜として位置づけられ、大量栽培が可能なた植物が、人の都合に合わせたところで、無理やりに近い形で人が与えたもの(光、肥料、温度や水など)で生かされ、利用されています。栄養価、最終時期と状態等も人が決めています。植物を守ってくれるのは植物自体と、その栽培で儲けようとする人間のしてくれる行為の両方で成り立っています。
食品は、人が生きて行くうえで大事なものです。経済なくして、今や生活は成り立ちませんが、上に書いたことは考えて見なければならないことと私は常々思っています。
茶の活用も先のブログとここにに書いたように、先人は行ってきました。ではどうすればいいのか、特に茶について、私が思うところにこれから触れて行きたいと思います。